【ウズベキスタン旅行|予習】ウズベキスタンの歴史ざっくりまとめ

ざっくり歴史まとめ
ざっくり歴史まとめウズベキスタン

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ぽや妻
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こんにちは!
ぽや妻@poyatabi)です。
ウズベキスタンに行く前に知っておくとより楽しめる『ざっくり予習』シリーズ。この記事では簡単にウズベキスタンの歴史についてまとめてみました。

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はじめに

こんにちは!ぽや妻です☺ ぽや旅では旅の計画・手配・記録(YouTubeで旅の様子をまとめる)を担当しています(YouTubeチャンネル【ぽや旅】もぜひご覧ください♪)。旅行や歴史の専門家ではありません。素人が観光旅行に出かけるときに知っているとより旅が楽しめるような情報をまとめています。物足りないかもしれませんが、とりあえずざっくり知っておきたい!という方のお役に立てば幸いです♡

年表|ウズベキスタンの歴史

↓まず、ウズベキスタンの場所はこの辺り。中央アジアにある二重内陸国で首都はタシケントです。

ウズベキスタンは旧ソ連崩壊後の1991年に独立した新しい国なので、ウズベキスタンの歴史というよりは中央アジアのウズベキスタン周辺に関する歴史という感じで、ロシア併合前までをまとめています。

ウズベキスタンの歴史年表
  • 古代
    ソグディアナ地方にイラン系民族(ソグド人)が定住

    ソグディアナはアラル海に注ぐ大河 アム川とシル川にはさまれた地方サマルカンドを中心とする一帯(現在のウズベキスタンの辺り)。オアシス都市が多数点在。

  • 紀元前4世紀
    アレキサンドロス大王(アレキサンダー大王)の東方遠征

    ソグディアナを平定。ソグディアナの豪族オクシュアルテスの娘、ロクサネと結婚。→ヘレニズム文化圏になる。

  • 6世紀
    中央アジアのトルコ(テュルク)化

    トルコ系遊牧帝国の突厥が中央アジアに勢力を伸ばす。トルコ(テュルク)化した地域をトルキスタンと呼ぶようになる。

  • 8世紀
    中央アジアのイスラーム化

    イスラーム勢力がアム川を超えてソグディアナに侵攻し、イスラーム化が始まる。

  • 9世紀
    イラン系イスラーム王朝 サーマーン朝が誕生

    中央アジアで最初のイスラーム王朝。首都はブハラ

  • 10世紀
    トルコ系イスラーム王朝 カラハン朝が誕生

    トルコ系で最初のイスラーム王朝。

  • 13世紀
    チンギスハーンの征西

    徹底的な破壊活動でサマルカンド・ブハラが壊滅。

  • 1370年
    トルコ=モンゴル系イスラーム王朝 ティムール朝が誕生

    ティムール朝(1370年~1507年)。首都はサマルカンド

  • 1500年
    遊牧ウズベクが南下しティムール朝を圧迫

    サマルカンドを征服しシャイバニ朝を建国。

  • 1507年
    シャイバニ朝によりティムール朝が滅亡

    シャイバニ朝(1500年~1599年)。首都はブハラ

  • 18~19世紀
    ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国の支配
  • 1865年
    ロシア帝国がタシケントを占領
  • 1867年
    ロシア帝国がトルキスタン省を設立しタシケントに総督府を設置
  • 1918年
    ロシア連邦共和国の一部としてトルキスタン自治ソヴィエト社会主義共和国成立
  • 1920年
    ブハラ人民ソヴィエト共和国、ホラズム人民ソヴィエト共和国成立
  • 1924年
    ロシア帝国「民族的境界画定」を中央アジアで実施

    ウズベク・ソビエト社会主義共和国が誕生しソ連邦に組み込まれた。「共和国境界画定」とは民族や居住地域・民族自治単位などを一致させるために共和国を区分単位として境界を定めること。

  • 1989年 6月
    フェルガナ事件

    ウズベク人とメスフ人の民族間衝突。

  • 1990年 3月
    カリモフがウズベク・ソビエト社会主義共和国の大統領に就任
  • 1990年 6/20
    共和国主権宣言

  • 1991年 12/26
    ソビエト連邦の崩壊
  • 1991年 8/31
    共和国独立宣言 国名を「ウズベキスタン共和国」に変更

  • 2005年 5月
    アンディジャン事件

    反政府デモに対し軍による鎮圧を行いデモ参加者数百人を射殺。

  • 2016年 9月
    カリモフ大統領逝去

    大統領任期:1990年3月~1991年8月、1991年12月~2016年9月。

  • 2016年 12月
    ミルジヨーエフ大統領就任

    2021年ミルジヨーエフ大統領が再選、2023年ミルジヨーエフ大統領が再々選。

中央アジア、ウズベキスタンの歴史に登場する人物や国について↓

古代|ソグディアナってどの辺ですか?

ソグディアナは現在のカザフスタン南部、ウズベキスタン東部、キルギス西部、そしてタジキスタンを含む地域。シルクロードの中間地点にあり東西交易の要衝でした。

ソグド人ってどんな人?

ソグド人の見た目の特徴は
・円錐形のフェルトの帽子をかぶっている
・彫の深い顔つきでひげを生やしている
…という感じらしいです。砂漠地帯の移動・運搬にはやっぱりラクダが便利だったようです。

Référence(s) : Gilles Béguin, Le petit peuple des tombes, Paris Musées, 2010, p.57.

東西交易では国際商人として活躍し、独自の文字(ソグド文字)・言語文化(ソグド語)を持っていました。ソグド人はイラン系の民族で、ゾロアスター教(拝火教)を信仰していました。

ゾロアスター教とは

ゾロアスター教は、古代イラン(ペルシア)の宗教家・ゾロアスター(ザラスシュトラ)によって創唱された宗教で世界最古の宗教とされています。成立年代は前1200年代から前7世紀頃までの幅があり確定していません。経典はアヴェスター。
善神アフラ・マズダと暗黒の神アングラ・マイニュ(アフリマン)との闘争を宇宙の歴史と捉え、善神の勝利と新しい世界の確立を信じる善悪二元論に基づいた信仰。祭壇の聖火を善神の象徴として崇拝するため拝火教とも呼ばれます。偶像崇拝、火葬、土葬、水葬を禁じ、遺体を塔上に放置して鳥葬にします。

日本の自動車メーカー マツダ

マツダ株式会社は日本の広島県安芸郡府中町に本拠を置く日本の自動車メーカーですが、 マツダの英語表記 MAZDA はゾロアスター教の最高神で調和・知性・叡智を司るAhura Mazda(アフラ・マズダ)にちなんだものです。

中国語で表されるソグド人

ソグド人は中国で胡人と呼ばれていました。胡瓜(きゅうり)、胡桃(くるみ)、胡麻(ごま)は いずれも「胡」という漢字を含んでおり、中国の西域と関係があることがわかります。
東方におけるソグド人の記録は中国歴代の王朝が編纂した資料の中に多く見られ、当時の文献に現れる康、安、石などはソグド人の姓です。ソグド姓は出身地と関係しています。

康 → サマルカンド
安 → ブハラ
石 → タシケント

米 → マーイムルグ
史 → ケッシュ/キッシュ
何 → クシャーニヤ
曹 → カブーダン
畢 → パイカンド
※ 羅、穆、翟は対応する地名が特定されていません。

関連) 安史の乱を起こした安禄山もソグド人。本姓は康で父親がサマルカンド出身のソグド人、母は突厥系の巫師。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(roxš(a)n、明るい・光の意味)」の音訳との説あり。

オアシス都市と東西交易

中央アジアを通る「オアシスの道」 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

オアシスの道(天山南路)+草原の道(天山北路)+海の道(海上交通路)が後にシルク=ロードと呼ばれるようになりました。天山北路上にタシケント、サマルカンド、ブハラがあります。
こちらのざっくりした地図では繋がっていないのですが(本当はもっと沢山細かく分かれたルートがある)、天山山脈により南北に分かれた道:天山北路と天山南路が再び合流する場所がサマルカンドで、東西交易の要衝・文化の交差点であったことがわかりますね。

アレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)

アレクサンドロス大王のモザイク画|イタリアのポンペイ遺跡で発見されたもの(一部)

アレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)ことアレクサンドロス3世は古代ギリシャのマケドニア王国の君主です。20歳でマケドニアの王となり32歳亡くなるまで、その治世のほとんどを侵略・戦争に費やしました。16歳の時に初勝利を挙げて以来、戦争で一度も負けたことが無かったという伝説の英雄です。
アレクサンドロスはギリシャ読み、アレキサンダーは英語読み。
・家庭教師(専属の先生)がアリストテレス(古代ギリシャの哲学者。プラトンの弟子)だった。

アレクサンドロス大王はイケメンだったっぽい

アレクサンドロス大王は左右の瞳の色が違う虹彩異色症(ヘテロクロミア、いわゆるオッドアイ)だったといわれています。『一眼は夜の暗闇を、 一眼は空の青を抱く』との伝承があり、濃い茶系と青い瞳の持ち主だったということですが、本当であれば外見がもう漫画の主人公!って感じがしますよね。

東方遠征

アレクサンドロス大王 東方遠征地図

アレクサンドロス大王は前334年に東方遠征を開始し、ペルシア帝国を滅ぼして前226年には西インドにまで及ぶ大帝国を建設しました。前327年春、ソグディアナの豪族(バクトリア王国)の娘ロクサネと結婚(アレクサンドロス大王の一目ぼれだった説あり)。
※アレクサンドロス大王はロクサネの他にもアケネメス朝ペルシアの最後の王であるダレイオス3世の娘スタテイラダレイオスの異母妹のパリサティスとも結婚しています。

アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシャ文化・オリエント文化・エジプト文化が融合した「ヘレニズム文化」が生まれました。

死因と埋葬地の謎

アレクサンドロス大王は前323年6月10日(頃)、バビロンで死去。32歳でした。

宴会の後に急死したため、毒殺説やマラリア説、てんかん説などいろいろな説があります。遺体はエジプトのアレクサンドリアに埋葬されたといわれていますが、墓の場所が未だにわかっていません。

アレクサンドロス大王は後継者を指名しなかったため、後継者争いにより王国は分裂。巨大な王国は僅か一代で終わってしまいました。

突厥(とっけつ)

突厥の最大版図

突厥=テュルク/チュルク Türk の音訳。突厥は6〜8世紀にかけてモンゴルから中央アジアを支配したトルコ系遊牧民族です。
※トルコ、テュルク、チュルクの違いについて|世界史ではテュルクと表すことが多く、言語学ではチュルクと表すことが多いようです(専門家ではないので詳しいことはわからないのですが)。また、一般的に日本国内では『トルコ』と言った場合はトルコ共和国を指す場合が多いようです。

テュルク系民族って?

テュルク系民族とはテュルク/チュルク語族の言語を使用する民族集団。

Atilim Gunes Baydin, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

現代のテュルク系の国や地域は↑こんな感じ。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域です。

イスラーム世界

イスラム教

イスラム教は7世紀にアラビア半島で預言者ムハンマドが神の啓示を受けたことをきっかけに布教がはじまった一神教で、世界三大宗教の1つです。

イスラーム帝国

イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

ムハンマド時代からウマイヤ朝までがアラブ帝国、(アラブ人主体の国家から非アラブのムスリムを平等に扱うようになった)アッバース朝以降がイスラーム帝国と呼ばれます。

イスラム帝国の領域 ©世界の歴史まっぷ

イスラーム帝国はどんどん領域を拡大し、東は中央アジア、西はイベリア半島におよぶ広い地域を支配するようになりました。

イスラム教の聖地

メッカ:預言者ムハンマドの生誕地。イスラム教第1の聖地。カアバ神殿がある。
メディナ(マディーナ):預言者ムハンマドが亡くなった地(お墓もある)。イスラム教第2の聖地。預言者のモスクがある。
エルサレム:預言者ムハンマドが一夜のうちに昇天する旅(ミウラージュ)を体験した場所。イスラム教第3の聖地。岩のドームがある。

紙の製法が伝わる

751年、唐王朝との戦い(タラス河畔の戦い)で勝利を収めたアッバース朝に捕らえられた捕虜の中に唐の紙職人がいたことで、製紙法がイスラーム世界に伝わりました。捕らえられた製紙職人たちはサマルカンドに作られたイスラーム世界で初の製紙工場で中心的な技術者となり、紙の生産が始まりました。

サーマーン朝~カラハン朝

サーマーン朝

サーマーン朝は中央アジア最初のイラン系イスラーム王朝(アッバース朝から独立|875年~999年)で、ナスル1世が初代君主。中央アジアとイラン東部を支配。首都ブハラはイラン・イスラーム文化の中心地となり、哲学・科学・文学などが発達しました。
しかし10世紀後半には内紛により弱体化し、東方から移動してきたトルコ系のカラハン朝によって滅ぼされてしまいます。

ブハラに残る中央アジア最古のイスラーム建築

イスマーイール=サーマーニー廟

イスマーイール=サマーニー廟はナスル1世の後を継いだイスマイール・サーマーニーが父親の死後に家族の墓所として建てた霊廟で、イスマイール自身と彼の孫ハスルもこの霊廟に埋葬されました。
※ナスル1世はイスマーイール・サーマーニーの兄。

13世紀のモンゴル帝国の襲来の際に廟は砂の中に埋もれていたために破壊を免れ、当時の美しい姿を観ることができます。中央アジアにおける最古のイスラーム建築で、レンガに施された装飾はイスラーム化以前の中央アジアの建築に見られる特徴が残っています。

カラハン朝

中央アジアに起こった最初のトルコ系イスラーム王朝(840~1212年)。999年に西トルキスタンに侵攻してサーマーン朝(イラン系)を滅ぼし、西トルキスタンのトルコ(テュルク)化を促進しました。中央アジアのトルコ(テュルク)系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団と考えられています。

チンギス・ハン|モンゴル帝国

National Palace Museum, Public domain, via Wikimedia Commons

モンゴル帝国(1206年~1271年)はモンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・ハン(本名:テムジン|鉄木真)が創設した遊牧国家(ウルス)です。
※ウルスはモンゴル語やトルコ語で、人間の集団、部族、住民、国、国家、王朝などを意味する言葉です。集団の大小に関わらず、一つの政治的集団をウルスと呼びました。

モンゴル帝国の最大領域地図 ©世界の歴史まっぷ

モンゴル帝国の領土はユーラシア大陸のモンゴル高原の西方の中央アジア、東アジア、西アジア、東ヨーロッパまで広がり、地球上の陸地の約25%を占めていたそうです。チンギス・ハンの遠征ブハラやサマルカンドが破壊されました。

モンゴル帝国はチンギス・ハンの死後、キプチャク・ハン国(現在のロシアの辺り)、イル・ハン国(西アジア)、チャガタイ・ハン国(中央アジア)、元(中国)の4つに分裂しました。※後にチャガタイ・ハン国からティムールが登場します。

内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

世界の歴史まっぷさんの図を見るとわかりやすいです。ウズベキスタンの歴史を見るにはトルキスタンのところを眺めてみてください。

ティムール朝

ティムール朝(1370年~1507年)はティムールが建国したトルコ=モンゴル系のイスラーム王国で、首都はサマルカンド。中央アジアから西アジアを支配した大帝国です。

ウズベキスタンの英雄ティムール

遺骨から復元したティムールの像

ティムールはチンギス・ハンの子孫ではなかったために生涯「ハン」の称号を名乗らず「キュレゲン(ハンの婿)」「アミール(長、司令官)」の称号を名乗りました。

びっこのティムール
ティムールは生前 足が不自由だったという言い伝えがあり、ペルシア語では「跛者のティムール」を意味する「タメルラング」「ティムーリ・ラング」と呼ばれていました。身長は172cmほどだったようで、14世紀当時としては長身でした。

ティムールの出現

モンゴル帝国から分かれて中央アジアに作られたチャガタイ・ハン国も14世紀にはイスラム化が進み、さらに東西に分裂し衰退し始めました。この頃、西チャガタイ・ハン国の辺りから頭角を現したのがティムールです(ティムールについては謎も多く伝説的なエピソードが多い)。チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身といわれています。

しばしば征服した土地で破壊や虐殺を行うなど冷徹な面があり、一代で大帝国を作り上げたことから第二のチンギス・ハンと呼ばれることもあります。

ティムール朝の領土 HetmanTheResearcher, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons

ティムールは数多くの外征を行い領土を拡大。アンカラの戦いではオスマン帝国を破りました。

ティムールの死

アンカラの戦いの後、ティムールはの永楽帝との決戦のために中国遠征に出発。しかしその途中(自国領土を出る前)に体調を崩し帰らぬ人となりました。1405年2月18日(68歳没)。

ティムールは生前、シャフリサブス(ティムールの生まれ故郷)のアクサライ宮殿の近くに自分のための廟を建設していましたが、真冬(2月)に急死したため雪でシャフリサブスへの道が閉ざされており、急遽サマルカンドに埋葬されたようです。

グーリ・アミール(アミール・ティムール)廟

ティムールが眠るグーリ・アミール廟(サマルカンド)↑。
本来は1403年に戦死したティムールの孫(ムハンマド・スルタン)のために建設された廟でしたが、自らも眠ることになりました。

ティムールの呪いとWW2

ティムールの墓には恐ろしい逸話もあります。

グーリ・アミール廟の内部

ティムールの棺には「私が死の眠りからさめた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」と書かれていました。また、「ティムールの墓所を暴いた者は戦争の悪霊を解放してしまう。そして世界は恐るべき殺戮を見ることになるだろう」と書かれた17世紀の本もあったとか。(壮大な伏線ですね)

ティムールの死から500年余りが過ぎた1941年6月、ソ連の学術組織によって墓所の発掘調査が行われます。調査の結果ティムールの足が不自由だったことやウルクべクが断首により殺されたこと等が明らかになり、ティムールの頭蓋骨からは顔の復元もされました。

このように調査による成果はありましたが、1941年の調査開始日の翌日(翌々日や3日後との説もあり)、ナチスドイツがソ連に侵攻したのです(蓋が開いたとたんにティムールの呪いが発動)。ヒトラーによるバルバロッサ作戦の発動でドイツ・ソ連両国の不可侵条約は一方的に破棄され戦争状態になりました。

墓所の調査が終わった1942年11月、ティムールの遺体はムスリムの儀礼に則った盛大な再葬が行われました。ティムールが元の場所に落ち着くとソ連軍に勢いが戻ります。翌年2月にはスターリングラード攻防戦に勝利し風向きが変わりました。

ティムールの棺の蓋が開いてから閉じるまでの間、まさに棺の言葉の通りになっていたわけですね。信じるか信じないかは…という感じですが、興味深いお話ですよね。

※ティムールの墓は2度開けられたことがあるようで、1度目は1740年にイラン(ペルシア)のナーディル・シャー(アフシャール朝の初代君主)が棺を持ち出そうとしたらしく、(その後いろいろあって)暗殺され、帝国は分裂。こちらもやはりティムールの呪いっぽいエピソードですね。

アンカラの戦い

アンカラの戦いは1402年7月、アンカラ(現在のトルコ共和国の首都。当時は平原)での戦闘です。オスマン帝国のスルタン バヤズィト1世ティムールが争い、ティムールが勝利しました。

バヤズィト1世    ティムール

バヤズィト1世はオスマン帝国の第4代皇帝でイュルドゥルム(Yıldırım|稲妻)との異名を持つ天才的な軍人でしたが、ティムールに敗北し捕虜となり、翌年には(捕虜のまま)亡くなってしまいます。

ティムールと捕虜になったバヤズィト1世

アンカラの戦いで敗北しバヤズィト1世が亡くなったことにより、一時オスマン帝国存亡の危機となりましたが、ティムールが翌年に明の遠征に向かう途中に亡くなったことで滅亡を免れました。

ティムール朝の首都サマルカンド

1220年のチンギス・ハンの征服を受けて廃墟となっていたサマルカンドですが、ティムールによりモスクやマドラサ(学校)が多数建設され、美しい首都へと再建されました。

もともとのサマルカンドの中心地は現在のアフラシャブの丘の辺りでしたが、ティムールの時代に現在の旧市街のある場所に移されます。モスクやメドレセの青いドームが美しいサマルカンド。この青色(ターコイズブルー)もティムールが好んだ色でした。

サマルカンドにあるビビハニム・モスク

ビビハニム・モスク↑。ビビハニムはティムールの妃の名で1404年に建造された壮大なモスクです。かつてはイスラム世界最大規模のモスクでした。

ティムール亡き後のティムール朝

シャー・ルフ

シャー・ルフ Mikhail Gerasimov, Russian sculptor, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons

シャー・ルフはティムールの四男で、ティムール没後の混乱(後継者争い)を収めティムール王朝の再統一に成功し、第3代君主となりました(第2代君主は追放)。シャー・ルフはヘラート(現在のアフガニスタン西端の都市)に都を移し、従来の首都サマルカンドには息子のウルグ・ベクを総督として配置しました。
政治面では父ティムールとは対照的に平和外交に力を入れ、文化・芸術を保護し、王朝で最も繁栄した時代を築きました。

ウルグ・ベク

ティムール朝第4代君主となったのはウルグ・ベク(ティムールの孫)です。学問・芸術を奨励し、本人も天文学者・数学者・文人としても優秀でした。ウルグ・ベクにより建設されたウルグ・ベク天文台は当時としては非常に革新的な建造物で、観測は肉眼で行われたにもかかわらず驚異的な正確さでした。

サマルカンド|現在は3つのメドレセが向かい合うレギスタン広場

レギスタン広場のウルグベク・メドレセ(向かって左の建物)はウルグベクが在位中に建てた神学校です。ブハラにもウルグベク・メドレセがありますが、こちらもウルグ・ベクが建てたもので、いかに学問を重視していたかがわかりますね。

ティムール朝の滅亡

第7代君主のアブー・サイードの死後、帝国はサマルカンドとヘラートの二つに分裂し、いずれも政治的・軍事的に弱体化していきます。

遊牧ウズベクの圧迫が続き、1500年にはサマルカンドが陥落。1507年にヘラートが滅ぼされたことにより、ティムール朝は滅亡しました。

ムガル帝国

ムガル帝国は、1526年から1858年まで存在したインド史上最大にして最後のイスラム王朝です。
第7代君主アブー・サイードの孫バーブルは遊牧ウズベクのシャイバニと争いサマルカンドの奪取を試みましたが失敗。アフガニスタンのカーブルからインドに入りムガル帝国を建設しました。ムガルはペルシア語でモンゴルを意味します。
タージ・マハルはムガル帝国時代のインド・イスラーム建築として有名です。

世界遺産タージ・マハル
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルのために建てた白亜の霊廟。

シャイバニ朝(シャイバーニー朝)

シャイバニ朝(1500年~1599年)はムハンマド・シャイバーニー・ハンがティムール朝を滅ぼして創建したトルコ=モンゴル系イスラーム王朝です。ウズベク・ウルスウズベク・ハン国と呼ばれることもあります。首都は(サマルカンドと)ブハラ

遊牧ウズベクとは

遊牧ウズベク(ウズベク人)とは、中央アジアの草原地帯で遊牧生活を送っていたウズベク族を指します。14世紀に北方にあったキプチャク・ハン国の族長ウズベクに由来する名前で、テュルク系の出自を持つ民族。やがて遊牧ウズベク(ウズベク人)は西トルキスタンに移住して定住するようになり、先住民と同化しながら現代のウズベク人となっていきました。
※現代のウズベク民族と区別するために、遊牧ウズベクと表します。

遊牧ウズベクが建てた3つのハン国

〇〇ハン国って…?

○〇ハン国の『ハン国』は汗国(かんこく/ハンこく/Khanate)のことで、(カン/ハン/qan)を君主とする国を指す用語。君主号としての「ハン」はモンゴル高原から中央アジアを中心とした、テュルク系およびモンゴル系の遊牧民王朝でよく用いられました。

「皇帝」という意味の「可汗|カガン/カアン/ハーン/qaγan」に対し、「|カン/ハン/qan」は皇帝より格下の「王」という意味だそうです。厳密には『ハン』と『ハーン』は意味が違うのですね。

ブハラ・ハン国

シャイバーニー朝(ウズベク・ハン国)のイスカンダル・ハンの代にサマルカンドからブハラ遷都して以降、ブハラ・ハン国と呼ばれるようになりました。1920年に滅亡。

ヒヴァ・ハン国

1512年から1920年にかけて、アムダリヤの下流及び中流地域に栄えたテュルク系イスラム王朝。建国当初はクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)を首都としていましたが、17世紀前半からヒヴァに遷都し「ヒヴァ・ハン国」の名称で呼ばれるようになりました。1920年に滅亡。

コーカンド・ハン国

フェルガナ盆地を中心に中央アジアに栄えたテュルク系イスラム王朝。1710年ごろに建国され、1876年にロシアに併合されて滅亡。

ウズベキスタン旅行記もあります(YouTube)

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ウズベキスタン8泊10日の旅|韓国経由で行くタシケント・ブハラ・サマルカンド旅行記【総集編】
※旅行当時(2023年10月末)のレートは1スム=0.0125円

ウズベキスタン旅2023まとめてご覧になる場合はこちらの再生リストからどうぞ。

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旅行の準備用に、ウズベキスタンの基本情報や便利なアプリ、鉄道の予約や旅行保険については↓こちらのまとめ記事をご覧ください。

イスラム文化圏に行くと必ず出会うアザーンについてまとめてみました↓

参考文献・サイト

外務省ホームページ
Uzbek Friends
世界の歴史まっぷ
世界史の窓
Wikipedia
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